スウィッチャー 前編 |
| 「58本。」 自分の声が響き、思わず部屋の隅にある古いテレビに目をやった。電源の入っていない画面には、しゃがみこんだ自分が映っている。顔の表情まではわからないが、丸まった背中は見てとれた。 一人で暮らすにはこの部屋は大きすぎる。テレビもそうだ。 わざわざテープの本数を数える必要はなかった。そんなことをしなければ、自分の姿を見なくてすんだはずだ。私はテープの入ったケースの引き出しを元に戻して出かける準備をした。 週に1、2回、会ったこともない人の「話」を録りに出かける。テープ一本につき一人の「話」を収録する。このバイトは卒業した大学の先輩、田村さんから依頼された。電話をもらったとき、私は田村さんの顔を思い出せずにいたが、仕事の内容を聞いてすぐに引き受けることにした。指定された場所で「話」の持ち主に会い、テープレコーダーのRECボタンを押す。現場でやるべきことはそれだけだった。録音中は「話」に対して相槌も打たず、質問もしないのがきまりだ。彼らの話の内容は様々だった。様々だということ以外、説明のしようがない。彼らはおおかた、よく喋り、よく語った。私はその話の内容に全く興味がなかった。所詮それはただのモノローグなのだ。彼らも私も、収録の間は演技者になる。彼らは今まで自分の周囲の人にしてきただろうその「話」を、より饒舌に、より効果的に話そうと努める。私は私で、彼らの中の新しい何かを引き出しもしなければ、既に持っている何かを押し殺しもしないよう、透明な存在になろうと努める。彼らは話し、私は録る。それだけだ。争わず、分かち合わない。私たちはお互い違う方向を見つめたまま、最低限のモラルの上にちょこんと腰掛け、小さな時間を過ごす。この関係は不思議としっくりとして居心地がいい。録り終えたテープを田村さんに郵送し、そこで私の任務は終了する。翌週の金曜日には指定した口座に報酬が振り込まれる。 本当なら、私の手元にテープは残らないはずだが、私は一本録り終わるたびに、自分の保存用としてダビングしている。何のために? 自分でも理由はわからない。ただそうしたかっただけで、始めて以来一度も再生したことはない。 このバイトの魅力を挙げるなら、学生の私にとっては破格の報酬。それと自分に守れる範囲の約束を与えてくれるということ。日常生活に約束を持てば、自分を狂わせずにすむ。実際、それは報酬の額面より大事なことだった。 最初の電話で、このテープは一体何に使うのか、田村さんに質問をしたことがあった。すると面倒くさそうに「市場調査のひとつだよ。仕事で使う。」と答えた。でも本当は彼の個人的趣味だと踏んでいる。他にも聞きたいことはあった。どうやって「話」の持ち主である彼らを見つけ出してくるのか。質問すればきっとまた彼は面倒くさそうに答えるに違いない。それを思ったら、こっちも面倒くさくなってしまい、聞くのをやめた。 59本目の「話」のために私は千葉県へと向かった。改札を出ると、よくある駅前の風景が広がっていた。カラフルな地面のブロック、緩いカーブを描いた手摺り。目に鮮やかな退屈色だった。 その日、待ち合わせに指定された場所はスーパーマーケット内の会議室だった。私は湿気た段ボールを積んだ台車の隙間を通り抜け、社員通用口を探し出した。守衛の男に自分の名前を告げ、今日の「話」持ち主の名前を告げた。そしてたった今、口頭で言ったことをもう一度「来訪者の記録一覧」に記入させられた。記入が終わると、「来客」と書かれた黄色いバッチを渡され、2階の会議室に行くよう指示された。入り口を入ってすぐの階段を昇り始めた私に、守衛の男は「ねぇ、バッチつけてねぇ。」と叫んだ。 会議室は今まで何度も訪れたことのあるような、その手の部屋だった。ここも段ボールと生ものが混ざった独特の臭いが充満していた。昼間でも蛍光灯をつけていないと暗い。左側の壁には「贈」と入った大きな鏡。偽の木目の会議机。パイプイスとパイプイスとパイプイスとパイプイス。 日本中のバイトの面接は全てこのスーパーマーケットのこの部屋で行われているような気がした。 私は椅子に腰掛け、テープレコーダーの中のテープを確認し、カレンダーの挿絵をぼんやり眺めて待った。数分でドアのガラスから人影が見えた。 丁寧なノックの後、彼女は現れた。 「すみません。お待たせしました。田村さんからご連絡いただいた福本です。」 反射的に私は自分の名前を言った。 彼女は美しかった。同時にこの部屋で一番の異物だった。 真っ直ぐ伸びた黒髪は胸元まであり、きっちり揃えられた前髪と毛先以外には鋏を入れたことがないように見えた。つるりと白い顔には、人間として機能するために必要なパーツ以外、何もなかった。そして彼女の身体と制服の関係は違和感そのものだった。この制服のデザインではどのサイズを選んだとしても、細身で円柱に近い彼女の身体に馴染むことはないだろう。彼女にどんな仕事内容をあてはめてみても、ここで働く姿を想像するのは難しかった。 福本さんは、机を挟んだ私の正面の椅子をゆっくり引きながら尋ねた。 「あ。正面では話しづらいので隣に座ってもよろしいでしょうか。」 「もちろん、かまわないです。」 そう答えた自分の声は、いるはずのない3人目の人間の声のようにくぐもって聞こえた。 福本さんは改めて私の左隣の椅子を引いて座り、大きなため息をひとつついてから話し始めた。 「彼の印象は圧倒的でした。彼は初めて見たときから揺れていました。それは決して抽象的な意味で言っているのではないんです。彼の身体は常に、メトロノームのように左右に大きく揺れていたんです。」 台本を読むように発せられた彼女の声は少しうわずっていて、決心にまとわりついた緊張感が伝わってきた。私は自分の左隣に座る彼女の顔を横目で盗み見ようと試みたが、そうするには2人の間の距離がありすぎた。 「当時、私たちは製菓工場の工員でした。彼を初めて見かけたのは、入社したての私が工場内の施設の説明を受けている時でした。社員食堂に通じる廊下で、数人の職場仲間と歩いている彼とすれ違ったのです。すれ違った直後も、私は案内役の先輩社員に気づかれないように、彼の後ろ姿を見ようと何度も振り返りました。今でも、その日の彼の青い制服のだぼつきを覚えています。ズボンのポケットに差し込まれたタオルは彼の身体の大きな揺れと一拍ずれながら、小さく揺れていました。 私はその日から、彼のことが気になってしょうがなくなりました。自分でもなぜ、そこまで彼のことが気になるのか理解できませんでした。彼をもう一度見かけたとしても、そこから自分がどうしたいのかもわからなかったのです。工員のグループを見かけるたびに、その中に大きく揺れる人影がないか探すようになりました。でも工場で名前も部署もわからない工員を探し出すのは容易なことではないんです。 私は毎日単調な仕事をこなしながら、彼のことを考えていました。工場はとても広大で敷地内はまるで迷路のように複雑に入り組んでいました。私が働いていた建物のほかにも、町全体に小さい工場が点在していたので、最後まで全体を把握することはできませんでした。あの規模からすると、働いていた人間も相当な数いたと思います。私たちは一度担当の部署を与えられると、その場所が行動範囲の全てになります。自動的に会う人間も決まってきます。ひとつ隣の建物にまだ顔を合わせたことのない工員がいても珍しいことではないんです。 私が彼をもう一度見つけ出すためにできることは、全部で3カ所ある社員食堂を、日替わりでうろつくことぐらいでした。そうして彼を探しながら数週間が過ぎました。 毎日は驚くほど似ていました。朝、玄関を出て、駅まで歩き、電車に乗り、職場へ着き仕事をし、家へ帰る。夜、眠るために目を閉じると、明日の朝目覚めてから目に入る一日の風景と、その風景に伴う感情を思い描いてしまうんです。きっと明日もこういう日になるだろうな、と。24時間後、私はこの布団の中でまた同じことを思い浮かべるのだろうな、と。 いずれ眠りにつき、数時間後に朝が来れば、昨晩布団の中で思い描いたことと寸分の狂いもない一日が始まるのです。それでも、そんな生活に苦痛を感じてはいませんでした。 高校を出てから10年近く、様々な職種に就きました。どの仕事も辛くて辞めたことはありません。私はシステムに組み込まれることが好きなんです。もっと細かく言うと、システムに組み込まれた瞬間が好きなんです。職種を変えるたびに、それぞれのマニュアルを教わります。それを覚え、こなしていくのが快感なのです。どんなに小さい仕事でも、それに纏わるルールがあります。ひとつひとつのルールに従い慎重に山を崩していくのです。どんなに煩雑で手強い仕事でも、毎日の集中の仕方で、みるみる成果をあげることができます。こういう言い方をすると変に思われるかもしれませんが、歯車の一部になることが幸せなんです。 ひと通り仕事を覚えてしまうと、また違うルールを覚えるために職種を変えてしまうんです。」 彼女が一旦話を止めると、一瞬で周りの静けさが耳についたが、すぐに階下の搬入口を出入りするトラックのエンジン音が聞こえてきた。 「結局、彼と再会できたのは職場ではなく、朝の通勤電車の車内でした。 混雑する人混みの中に彼の揺れる頭だけが見えました。私たちは職場のある同じ駅で降り、私はすぐに彼に駆け寄って彼の肩に手を伸ばしました。自分がその時、何と言って話しかけたのか覚えていません。だた、怪しまれることなく自分が何者であるかを証明するために、社員証を提示したことは覚えています。 朝のホームの人混みの中でそんなものを提示して話しかけた私は、彼の目にはとても滑稽に映ったようでした。でもそのおかげで、初めて彼の笑顔を見る事ができました。 私と彼の自宅の駅はひとつ違いでした。それまで私が彼を見つけられなかったのは、彼が毎朝必ず、同じ時刻に電車の一番後ろの車両に乗っていたからなんです。私は時刻も車両も決めていませんでしたが、比較的階段から近い前の車両に乗る事が多かったのです。 きっと彼は毎朝同じ時刻の同じ車両に乗ることに神経を注いでいたのだと思います。彼を初めて見たほとんどの人は、揺れる彼の身体を凝視してしまうからです。同じ時間の同じ車両の乗客同士は、大袈裟に言えば顔見知りになります。少しでも顔見知りの人間に囲まれているということは、彼にはとても楽なことだったのだと思います。 私が彼の決めている時刻と車両に合わせ、私たちは毎日一緒に通勤するようになりました。 そしていつの間にか、お付き合いするようになったんです。私たちはお互いのアパート行き来しながら過ごしました。 彼は無口な人間に属すると思いますが、それは私も同じです。お互いに親友と呼べるほどの友人はいませんでしたし、これといった趣味もありませんでした。共通の話題がなくても、私は彼の揺れている姿を見ているだけで心がなごみました。この人をここまで必要とするのは世界中で私だけなのだと本気で思いました。」 そこまで話すと福本さんは、ブラインドの下りた窓を仰ぎ見て、深呼吸をした。またすぐに正面を向き、何度か瞬きをした。彼女のまばたきは本当にパサパサという音をたてた。 「でも、駄目になってしまいました。彼は突然姿を消してしまいました。彼は私に何も言わず会社を辞め、アパートも引き払ってどこかへ引っ越してしまったんです。」 福本さんは完全にうつむいていた。 (後編へつづく) |