スウィッチャー 後編 |
| 私にしては珍しく「話」に入りこんでいた。視線だけでなく、顔ごと彼女の方を向いて表情を見ようとしたが、無理だった。彼女の黒髪達が飼い主に忠実な大型犬のように彼女の横顔をガードしていた。うっすら赤くなった耳の先だけが、ひょっこり顔を出していた。 「とてもショックでした。どうして急に彼がそんな行動をとったのか考えました。何度考えても思い当たることはひとつしかありません。 私は毎日彼を眺め続け、見つめ続けて生活するうちに、ある感情が止められなくなってしまっていたんです。私はどうして彼ではないんだろう、どうして彼にはなれないんだろう、と。 その思いは日に日に強くなっていきました。そんなことは考えても仕方がないことだし、そんな欲求が自分にあること自体、意味がわかりませんでした。 一生懸命押し殺そうとしましたが、だめでした。私は彼になりたかったんです。」 スウィッチ。 「彼がいなくなる前の日、私のアパートで2人で夕食を食べながらテレビを見ている時のことです。彼の揺れがいつもより小さく見えたんです。彼と知り合ってから、そんなことは初めてでした。彼に聞いてみようかとも思ったのですが、とてもデリケートな話題にも思えてきて、結局、もう少し様子を見てみることにしました。 今思えば、その日の彼はより一層無口で、顔色もよくありませんでした。そのうち彼は自分のアパートに帰ると言い出しました。きっと身体の調子が悪いのだろうと引き止めることはしませんでした。 彼が帰った後、部屋に一人になった私は読書灯だけをつけ、読書をしていました。その時に、ふと揺れる人影を感じました。彼がいるはずはありませんから、気持ち悪く思いました。でも部屋を見渡し、すぐに理由がわかりました。 壁に立て掛けていた鏡の中に、揺れる私が映っていたのです。 今日彼の揺れが小さく見えたのは、私自身も揺れていたからなんだと、その時やっとわかりました。 でも、本当の意味での事の重大さには気づいたのは次の日になってからでした。 共有してはいけなかったんです。人と人との関係にはそういう部分があるんです。少なくとも、私と彼の間では共有してはいけなかったんです。揃うことがあってはならないリズムだったんです。 彼がまた、私の目の前に姿を現すとは思えません。でもどうしても、もう一度彼に会いたいんです。こうして職場が変わった今でも、彼が乗っていた同じ時間の同じ車両に乗り続けています。時間を見つけては、駅から彼が住んでいたアパートへの道を往復しています。そうしていれば、何かの拍子にまた彼を見つけることができるような気がしてならないんです。」 福本さんの声のトーンは明らかに変化していた。私は自分なりの気遣いのつもりで、彼女に向けていた視線を、再びテープレコーダーへ戻した。 頭の中で、彼女の「話」の中の風景と、自分の記憶の中の風景とが入り混じった。 浪人生だった頃の恋人のアパート。駅から続くアパートまでの道のり。夜中に突然会いに行ったあの日。私の十数メートル先を小柄な女性が歩いていた。その女性の選ぶ道のりはいつまでも私と同じだった。道のりだけではなかった。目的地までも同じだった。彼の部屋の前に立ちノックをする女性。開いたドアから出てきた手は彼女の頬に触れた。彼女は室内から溢れる明かりの粒子にまでも歓迎され、部屋の中に吸い込まれていった。 スウィッチ。 私は道に突っ立って思った。 これは私の話ではなく、誰かが話した話の中の出来事。 どのくらいの間、沈黙を録音し続けたのかわからない。沈黙を破ったのは、福本さんの声ではなく、衣擦れの音だった。私はついに彼女が泣き出したのだと思った。そうっと、彼女のほうに視線をやった。 彼女は泣いているわけではなかった。福本さんは泣かないままで、完全に崩れてしまっていた。 頭は前方へ深くうなだれ、真っ白い首には頸椎の形がはっきりと浮き出ている。腰全体が前方へずれ出し、椅子の座面の端に、尾てい骨がどうにか乗っていた。そのせいで、太腿の途中までスカートが捲れ上がっていた。膝下の脚はひしゃげた八の字を形作り、右足の黒いパンプスは半分脱げ、柔らかそうな踵がリノリウムの床の上にいた。それは私にいつか見た死体を連想させた。ブルーシートの下からはみ出した、白く柔らかそうな踵。体の他の部位は散り散りに飛び散ったというのに、きれいなまま残ってしまった踵。 テープが全て無くなってしまっても、福本さんは動こうとしなかった。私は初めて「話」の途中の相手に声を掛けた。 「大丈夫ですか?」 この声もまたくぐもって聞こえた。なにより、その言葉を選択した自分に嫌気がさした。それでも私は福本さんにこれ以上崩れて欲しくはなかった。 彼女を起こそうと椅子から立ち上がったのと同時に、今まで背後にあった大きな鏡が私の視野に入った。魔が差した。部屋に入ってからずっと無視していたのに、鏡の中の自分を見てしまった。そこに映った顔はブルーシートの下の死体の主に思えた。スウィッチ。 それから3週間、バイトには行っていない。19ヶ月続いた禁煙も辞めた。今、電源の入っていないテレビにまた自分の姿が映っている。 その影は左右に大きく揺れている。 スウィッチ。 (完) |