第2回 ブラジル・サンパウロ




いまはサンパウロのホテルで、窓からの景色はビルの群れにブルーのグラデーションがきれいにかかった空。
もう陽が暮れかかっている。
きょうももうすぐ終わってしまうが、これから写真展のオープニングが控えている。
今夜でしばらくお世話になったかたがたと会う予定もないと思うと少し寂しい気持ちとともに、やっとこの仕事も手が離れると思うとほっとしたりもする。
ここ2〜3年はブラジルと縁があり、MAM(サンパウロ近代美術館)の依頼で何度かにわたり、ブラジル各所を撮影して回った。
依頼の仕事を作品として消化するにはいろいろと思うことがあったのだけど、こうやって進んでいくのが自分のしたかったことなのかもしれないなと思う。
いろんな人や物や、なんやかやとかかわりあっていくことは、面倒くさいことだけど、そのなかにたくさんの秘密が隠されている。
生きることは面倒なことばかりだが、そこにダイブしないと得るものはない。
カメラを持って注意深く耳を澄ませると、見過ごしてしまいそうだけどものすごくきれいなものが発見できたりする。
自分の住む世界は豊かなんだということを思い出せる。
ブラジルにいるあいだは毎日が撮影モードだから、そんな感じに敏感に反応してしまう。
食事をしているとき、移動中の車のなか、お茶を飲みながら人と話していても。
ささやかな声に耳を澄ませ続ける。
そうしていないと落ち着かないのだ。
面倒くさいと思う、ナマケモノの自分に浸食されるのが怖くて不安になるのかもしれない。
向かいあうことに怠ける自分がイヤなんだと思う。
日本に帰ってさんざんだらだらしてやる、と思っても、いまはその時間じゃないから。
いま、現場にいるあいだはちゃんとぶつかりたいと思う。


一度目の撮影は2006年の2月だった。
初めての南米。
少し緊張して空港ロビーを出るとむわっとなまあたたかい空気に包まれる。
寒い日本から真夏のブラジルのギャップを受け止めて、車窓の景色を眺めながらホテルへ向かう。
どこの国へ行ったときもそうだけど、空港からホテルまでの移動の時間は見る景色がいつもよりもちょっとズレて見える。
乗り物に乗っているせいだけでなく、自分の身体をつかって外の景色を見ていると実感する。
景色はすぐに流れて通り過ぎ、自分の人生も俯瞰で見ればこんなふうに進んでいるのかなと思う。
きょう見た景色は明日とは違う。
きょう会った人もつぎに会ったときは新しいその人だ。
そう思うと気持ちもひきしまってきて、これから始まるブラジルでの撮影の旅も、不安よりもワクワクとした気持ちのほうが大きくなる。
ホテルにチェックインするとシャワーを浴びてすぐにMAMへ打ち合わせに。
あまりに眠くて眼をしばしばさせながら、撮影する場所と日にち、展覧会の日程など話し合った。
そもそも最初にブラジルを撮影することになったきっかけは、2005年にMAMの館長のミルーとパリで会ったことから始まった。
パリのカルティエ財団美術館で個展を開いたときに、カルティエの館長のエルベが彼女を紹介してくれた。
一緒に食事をしながら、ブラジルでも展示をして欲しいという話をいただいたので、そのときはてっきりカルティエの巡回展ということなのかと思っていた。
が、つぎに東京で会ったときに2008年が日系移民の100周年だから、そのプレイベントとしてブラジルで撮影したものを展示するというのはどうかと依頼された。
自分にとってはブラジルも日系社会も未知の世界であったが、これも自分を成長させる経験となるかと思い引き受けたのだった。
自分の知らない世界はほんとうにたくさんある。
いまの時代は映画やテレビ、いろんな書物からたくさんの情報を得ることができるし、ある意味豊かで便利だけど、やっぱり現場に行って体感することはまたぜんぜん別のことだ。
見たい、という衝動は自分の仕事の原動力だ。


今回の旅は、まず日系移民の歴史を知るところから始まった。
サンパウロ市のリベルダーデという地区は日系民がいまもなおたくさん住んでいる。
その地区にある日伯会館の資料館のなかには移民の歴史を知ることができるさまざまなものが展示されていて、移民当初の生活がいかに困窮を極めたのかということを知ることができる。
奴隷のような生活のなか、荒れた大地を耕して、農業を発展させ、さまざまな事業を広めていった功績に人間の持つ生命力の果てしなさを思う。
第二次世界大戦時、日系移民のあいだでは情報を得ることができずに日本が敗戦したという事実がわからないまま、さまざまな憶測が飛び交ったという。
そのときに日本が勝ったと信じる「勝ち組」と、負けたと主張する「負け組」が衝突しあい、死者も多数でるという事件があった。
日本でいま「勝ち組」「負け組」という言葉は違う意味で浸透しているのを考えると、なんというか、、、どちらにしてもかなしい響きがある言葉だ。
それで、そのような混乱をまねかないためにサンパウロ新聞という日系人に向けた日本語の新聞が発行されるようになった。
そのサンパウロ新聞の現社主のエレーナさんの協力のおかげで、ブラジルでの撮影は順調に進んだ。
同じく新聞社の鈴木さんと古城さんとはたくさんの時間を一緒に過し、ブラジルのいろんな側面を教えてもらえた。
この人たちと出会っていなかったら、ブラジルの印象は全然違ったものになっただろう。
ブラジルについてのさまざまなことを教えてもらい、通訳もしてくれて、すてきなレストランにも連れていってもらい、取材先のアポイントメントにコーディネーターの手配など、あらゆることに手助けしてもらった。
仕事を超えたやさしさに、毎回あまえさせてもらった。
見返りを求めない、無償の親切はしみじみと胸に響く。
自分も誰かにこんなふうに返したいと思う。
そうやって、人から人へあたたかい気持ちが伝染していけば、すごい力になるんだろう。
そう考えると一人の人間の持つ力の大きさにめまいがするほどだ。

つづく








サンパウロの公園。ビルの一角とは思えない。

オスカー・ニー・マイヤーの建築物が多いブラジル。そのひとつです。 展示中。
 




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